【図解】原子の構造についての理解は量子力学の登場でどう変わったのか ~1粒の粒子から電子雲までの物語~

机も、空気も、水も、そして私たちの身体も、すべて「原子」からできています。しかし、人類が最初から現在のような原子の姿を知っていたわけではありません。そもそも原子という考えは、最初は実験によって発見されたものではなく、「物質をどこまでも細かく分けていったら、最後には何が残るのだろう?」という哲学的な問いから始まりました。

19世紀になると化学の発展によって原子の存在を仮定すると多くの現象がうまく説明できるようになり、やがて原子は単なる哲学上のアイデアから科学的な実体へと変わっていきます。しかし話はそこで終わりませんでした。1897年には原子より小さな「電子」が発見され、1911年には原子の中心に非常に小さな「原子核」が存在することが明らかになります。

こうして「中央に原子核があり、その周囲を電子が回っている」という原子像が生まれました。一見すると、これは太陽の周囲を惑星が回る太陽系にそっくりです。しかし、この分かりやすい模型には致命的な問題がありました。古典電磁気学をそのまま適用すると、原子核の周囲を回る電子はエネルギーを失い、やがて原子核へ落ち込んでしまうはずなのです。

さらに実際の原子は、好きなエネルギーの光を連続的に放出するのではなく、元素ごとに決まった特定の波長の光だけを放出します。なぜ原子は崩壊しないのでしょうか。なぜ電子のエネルギーは飛び飛びなのでしょうか。この謎を解くためには、電子を単なる小さな粒子として考えることをやめ、「電子には波としての性質がある」という量子力学の考え方が必要でした。

そして最終的に、電子は原子核の周囲を決まった一本の道筋に沿って回っているのではなく、空間に広がった「波動関数」によって状態が表され、その絶対値の二乗から電子を発見する確率が求められると理解されるようになります。教科書でよく見る「電子雲」は、この確率分布を視覚化したものです。今回は、人類がこの現代的な原子像へたどり着くまでの歴史を追ってみましょう。

「原子」という考えはどこから生まれたのか

物質を細かく分け続けたらどうなる?

原子という考えの起源は古代ギリシャまでさかのぼります。紀元前5世紀ごろ、レウキッポスやデモクリトスは、物質を細かく分割していけば、最終的にはそれ以上分割できない最小の存在へ行き着くのではないかと考えました。ギリシャ語で「分割できないもの」を意味する「atomos」が、現在の「atom=原子」という言葉の由来です。

デモクリトスたちの原子論は、現代科学のように実験によって導かれた原子論ではなく、「世界は何からできているのか」という哲学的思索から導かれた考えです。そのため、この時代に原子の大きさや質量が測定されたわけでも、その内部構造が予想されたわけでもありません。

その後、物質は連続的なものなのか、それとも最小単位からできているのかという問題は長い間決着しませんでした。原子が本格的に自然科学へ登場するには、化学反応を精密に測定できるようになる18世紀から19世紀まで待つ必要がありました。哲学上の「原子」が、測定可能な科学の対象へ変わる転換点が訪れます。

ドルトンの原子説 ~化学反応の規則を原子で説明する~

19世紀初頭、イギリスのジョン・ドルトンは、化学反応に見られる質量の規則性を説明するために近代的な原子説を発展させました。ドルトンは1803年ごろから原子論を提示し、1808年に出版した『A New System of Chemical Philosophy』でその考えを体系的にまとめました。

ドルトンの考えでは、物質はそれぞれ固有の原子からできており、化合物は異なる種類の原子が一定の整数比で結びついて形成されます。たとえばある元素Aと元素Bが結びついて化合物をつくるとき、原子同士が1対1、1対2といった単純な整数比で組み合わされると考えれば、化学反応の前後での物質の質量変化を自然に理解できたのです。

ただし、この段階での原子は、まだ内部構造を持たない小さな球のような存在として扱われていました。現代から見れば、同位体の存在などドルトンの原子説をそのまま適用できない部分もあります。一方で、「物質が離散的な原子から構成され、化学反応とは原子の組み替えである」という基本思想は、近代化学の発展に非常に大きな役割を果たしました。

原子は本当に存在するのか?

19世紀を通じて原子論は化学で大きな成功を収めましたが、「原子は計算に便利な仮想的概念にすぎないのではないか」という議論も残っていました。原子はあまりにも小さく、直接目で見ることができなかったからです。統計力学や気体分子運動論が発展すると、温度や圧力といった巨視的な性質も多数の原子・分子の運動として理解されるようになりました。

20世紀初頭にはブラウン運動の定量的研究なども原子・分子論を強く後押しし、「物質が非常に多数の微粒子からできている」という考えはますます実在的なものになっていきました。しかし皮肉なことに、原子が物質の基本単位として定着していくのとほぼ同じ時期に、「原子はそもそも最小単位ではない」という事実まで明らかになります。

原子の内部構造が見つかる

原子より小さな電子の発見

19世紀後半、低圧の気体を入れたガラス管に高電圧をかける「陰極線」の研究が盛んに行われていました。1897年、J. J. トムソンは陰極線が電場や磁場によって曲げられることを詳しく調べ、その電荷と質量の比を測定しました。その結果、陰極線は負の電荷を持つ非常に軽い粒子からできていると結論しました。

しかも、この粒子の性質は陰極に使う金属や放電管内部の気体を変えても基本的に同じでした。そのためトムソンは、この粒子が特定の物質だけに含まれるのではなく、あらゆる原子に共通する構成要素ではないかと考えます。この負に帯電した微粒子が、現在「電子」と呼ばれているものです。原子はもはや「それ以上分けられない球」ではなくなりました。

電子の発見は、原子の内部構造という新しい問題を生み出しました。通常の原子は電気的に中性です。それなのに原子内部に負の電荷を持った電子が存在するなら、その負電荷を打ち消す正の電荷も原子内部に存在するはずです。では、その正電荷と電子はいったいどのように配置されているのでしょうか。

トムソンの原子模型 ― 正電荷の中に電子が埋め込まれている?

1904年、トムソンは原子内部の正電荷が原子全体に広がり、その中に負の電子が埋め込まれているような原子模型を提案しました。後に「プラム・プディング模型」と呼ばれることになるモデルです。パンやプリンの中にレーズンが散らばっているように、正電荷の広がりの中に電子が配置されていることを表すネーミングですね。

この模型には一定の合理性がありました。正と負の電荷が全体として打ち消し合えば原子が電気的に中性であることを説明できます。また、電子が原子の構成要素であるという新しい発見も取り入れています。しかし、本当に正電荷が原子全体にぼんやり広がっているのかどうかを確かめる必要がありました。

金箔にα粒子をぶつけて原子の中を見る

そこで重要な役割を果たしたのが、アーネスト・ラザフォードの研究グループです。ハンス・ガイガーとアーネスト・マースデンは1909年ごろ、非常に薄い金箔へ高速のα粒子を照射し、その粒子がどの方向へ散乱されるかを調べました。α粒子は正の電荷を持つ比較的重い粒子であり、原子内部の電荷分布を探る「弾丸」のような役割を果たします。

トムソン模型が正しければ、正電荷は原子全体に薄く広がっているため、高速のα粒子が一度に大きな力を受けることはほとんどありません。多くのα粒子はほぼ直進し、少しずつ進路を曲げられる程度になると予想できます。実際、大部分のα粒子は金箔をほとんどそのまま通過しました。

ところが、ごく少数のα粒子が非常に大きな角度で散乱され、中には入射方向に近い方向へ戻ってくるものまでありました。原子全体に正電荷が均等に広がっている模型では、このような強烈な反発を説明することができません。α粒子が非常に小さな領域に集中した強い正電荷へ接近したと考える必要がありました。

ラザフォードの原子核模型 ~原子のほとんどは空っぽ~

1911年、ラザフォードは散乱実験を説明するため、原子の正電荷と質量の大部分が中心の極めて小さな領域へ集中しているという模型を提案しました。この小さな中心部分が「原子核」です。このモデルでは電子は原子核のはるか外側に存在し、原子全体の大きさに比べれば原子核は非常に小さいと想定されました。つまり原子の体積の大部分は、物質がぎっしり詰まった領域ではなく、スカスカの空間だというのです。

たとえば原子の大きさはおよそ \(10^{-10}\) m、原子核の大きさはおよそ \(10^{-15}\)~\(10^{-14}\) m程度です。両者には数万倍から10万倍ほどの長さの差があります。原子全体を東京ドーム(直径約\(200\mathrm{m}\))だとすると、原子核はその中心に置かれたビー玉(直径約 \(1\mathrm{cm}\))くらいの大きさに相当し、その周囲の大半は空間ということになります。

ラザフォード模型によって、現在の原子像につながる「中心に正の原子核、その周囲に負の電子」という構造が姿を現しました。1919年にはラザフォードが水素原子核に相当する陽子を原子核の基本的構成要素として認識する方向へ研究を進め、さらに1932年にはジェームズ・チャドウィックが中性子を発見します。これによって原子核が陽子と中性子から構成されるという現代的な像が形成されていきました。

「電子が原子核の周りを回る」というアイディアの欠点

ラザフォード模型の致命的な問題点

ラザフォード模型から連想しやすいのは、原子核を太陽、電子を惑星とした「小さな太陽系」のような姿です。しかし、この模型を古典電磁気学にそのまま従わせると重大な問題が発生します。原子核の周囲を円運動する電子は絶えず進行方向を変えているため、物理学的には加速度運動をしている荷電粒子です。

古典電磁気学によれば、加速度運動する電荷は電磁波を放射してエネルギーを失います。ですので、電子が原子核の周囲を回り続ければ徐々に運動エネルギーを失い、軌道半径は小さくなって、最終的には原子核へ墜落してしまうはずです。しかし、現実の世界では原子は極めて安定に存在しており、私たちの身の回りの物質が一瞬で崩壊することなどありません。

原子はどうやら電子と原子核でできているようだ、ということがわかっただけでは、原子そのものがなぜ存在し続けられるのかという根本的な問題に答えることができなかったのです。

原子スペクトルの謎

ラザフォード模型の問題点はこれだけではありません。高温の気体などから出る光をプリズムや回折格子で波長ごとに分けると、虹のような連続した色ではなく、特定の波長だけに鋭い線が現れることがあります。しかも、その線の並び方は元素によって異なっており、水素には水素固有のスペクトルがあり、ナトリウムにはナトリウム固有のスペクトルがあります。これを原子スペクトルといいます。

もし電子が原子核の周囲を自由に回れる古典粒子なら、電子のエネルギーも広い範囲の値を連続的に取れるはずです。その場合、放出される光のエネルギーも連続的になると予想されるため、特定の波長(エネルギー)の光だけを放出する原子スペクトルについても、ラザフォードの原子模型はマッチしていませんでした。

量子を取り入れた新しい原子模型へ

許された電子軌道

この問題へ大胆な答えを与えたのがニールス・ボーアです。1913年、ボーアはラザフォードの原子核模型と、プランクやアインシュタインによって発展しつつあった量子という考えを組み合わせ、水素原子の新しい模型を提案しました。電子は原子核の周囲のどんな軌道でも回れるのではなく、「特定の軌道だけ」が許されると仮定したのです。

ボーア模型では、許された軌道にいる電子は古典電磁気学なら放射するはずであっても、エネルギーを失わないと仮定されます。そして電子が一つの許された状態から別の状態へ移るときだけ、そのエネルギー差に相当する光を放出または吸収することができると考えます。二つの状態のエネルギーを \(E_i\)、\(E_f\) とすれば、光の振動数は次の関係を満たします。

\(h\nu=E_i-E_f\)

これによって「原子がなぜ特定の波長の光だけを放出するのか」という謎が大きく前進しました。ボーア模型におけるエネルギー準位を考えることで、水素原子からのスペクトルの規則性を説明することができました。実験から突き付けられていた原子スペクトルの謎を、原子内部の離散化された電子軌道とエネルギーを考えることで解決したのです。

ボーア模型の問題点 ~なぜ軌道が離散化されるのか~

ボーア模型は大成功を収めましたが、根本的な疑問が残りました。なぜ電子には特定の軌道しか許されないのでしょうか。古典的な粒子であれば、原子核から好きな距離を選んで回れてもよさそうです。また「許された軌道では電磁波を放射しない」という規則も、古典電磁気学から導出されたものではなく、原子を安定させるために導入された新しい量子条件でした。

さらにボーア模型は水素のような一電子原子には大きな成功を収めた一方、多数の電子を持つ原子、スペクトル線の細かな分裂、原子のさまざまな性質を完全に説明することはできませんでした。ボーア模型は古典力学と量子論の中間に位置する非常に重要な模型でしたが、それ自体が最終的な原子理論ではなかったのです。

電子の波動性から新たな原子像を導く

ド・ブロイの物質波 ~電子にも波動性があるはずだ~

転機となったのがルイ・ド・ブロイの発想です。光については、波として干渉・回折する一方、光電効果やコンプトン散乱では粒子としても振る舞うことが分かり始めていました。そこでド・ブロイは1924年、「光が波と粒子の両方の性質を持つのなら、電子のような物質粒子にも波としての性質があるのではないか」と考えました。

ド・ブロイは、運動量 \(p\) を持つ粒子には次の波長が対応すると提案しました。

\(\lambda=\frac{h}{p}\)

この考えを使うと、ボーア模型の「許された軌道」に新しい直感的な意味が生まれます。原子核の周囲を電子の波が取り囲んでいると考えたとき、円周上で波がぴったりつながる場合だけ安定した定常波を作れると考えられるからです。円周が波長の整数倍になる条件は、

\(2\pi r=n\lambda\)

です。ここへ \(\lambda=h/p\) を代入すると、ボーアが仮定した角運動量の量子条件と対応します。つまり、それまで「なぜか許された特定の軌道」が存在すると仮定していた量子条件が、電子を波として見ることで「定常波ができる条件」として理解できるようになったのです。

ド・ブロイの大胆なアイディアはデヴィソンらによって行われたニッケル結晶による電子線回折の実験で裏付けを得ることになります。デヴィソンらがニッケル結晶に電子線を入射したところ、それまでによく知られていたX線回折パターンと同様に、特定の方位にのみ極めて強い電子線回折が観測されたのです。

回折は波に特徴的な現象であるため、この実験結果は電子も波動性を有していることの決定的な証拠となりました。さらに、回折パターンから求められた電子の波長はド・ブロイが予言した \(\lambda=h/p\) とよく一致していたのです。

シュレディンガー方程式 ~電子を「波」として解く~

1926年、エルヴィン・シュレディンガーはド・ブロイの物質波という考えを発展させ、電子などの量子的な状態を記述する波動方程式を構築しました。現在「シュレディンガー方程式」と呼ばれるこの方程式では電子も波動関数 \(\psi\) を用いて表すことができ、どのような量子状態をとるのかを計算することができました。

例えば水素原子を仮定して、原子核の正の電荷にトラップされた電子の波動関数を計算すると、原子核の周りに球対称にぼんやり広がる関数が得られます。これによって、電子の状態が原子核の周囲に三次元的に広がるという、新しい原子像が得られました。

今日、高校の化学で学ぶような1s軌道、2s軌道、2p軌道… などは、このシュレディンガー方程式を解くことによって導かれる、電子の波動関数だったのです。従って、電子が取り得る量子状態は限定され、それに対応するエネルギーも離散的になります。

また、これら軌道の中を電子の粒がくるくる回っている、というイメージも現実ではなく、電子の状態そのものが、波動関数として三次元空間に広がっている、と考える方が実際の量子力学に近いイメージです。つまり、ボーアが考えた電子は原子核から一定距離の円軌道上を運動しているという模型は正しくなく、電子状態が三次元空間に広がっている、という原子模型へと大転換が起こったのです。

波動関数の確率解釈と電子雲

波動関数の広がりが意味するもの

シュレディンガーの波動方程式は、原子核の周りの電子状態を適切に表現するための画期的な考え方でした。しかし、波動関数の広がりがなにを意味しているのかについては、実はよくわかっていませんでした。シュレディンガーは当初、電子の電気的な性質が波動関数で表されるような空間的な広がりを持つと考えたようですが、これだと電子が見せる粒子性との間にズレが生じてしまいます。

1926年、マックス・ボルンは波動関数を「電子がそこに存在する確率」と関連付けて考えました。現在の量子力学では、波動関数そのものではなく、その絶対値の2乗

\(|\psi(\mathbf r)|^2\)

が、その場所で電子を発見する確率密度を与えると解釈します。つまり電子が原子核の周囲のどこを通っているかという一本の軌道を求める代わりに、「この領域では電子を発見する可能性が高い」「この領域では低い」という空間的な確率分布によって電子状態を記述するのです。

現代では、この原子核の周りに分布する電子の確率密度を「雲」に見立てて電子雲と呼ぶことがあります。雲が濃く描かれている場所ほど電子を発見する確率密度が高く、薄い場所ほど低い、という原子像を直感的に表す非常に便利な方法です。

ただし、電子雲を「電子という小さな粒子がちりばめられて雲を形成している」、あるいは「電子そのものがゼリーのように薄く広がっている」と解釈するのはどれも適切ではありません。たとえ電子1個だけが原子核の周りに存在していたとしても、その1個の電子を発見する確率分布が広がっていると解釈するのです。

原子軌道の形

シュレディンガー方程式を水素原子について解くと、電子の波動関数にはいくつもの異なる定常状態が現れます。最も低いエネルギー状態である1s軌道では波動関数と確率密度は原子核を中心として球対称に広がっていますが、よりエネルギーの高いp軌道はx, y , z方向に伸びる鉄アレイのような形状をしています。さらに高いエネルギーと複雑な形を持つd軌道、f軌道なども、現代科学では極めて重要な役割を果たします。

このs、p、d、fという原子軌道は、単なる数学的な関数ではなく、電子の波動関数がどのような空間分布を持つことができるかを表しています。その形やエネルギーは原子の電子配置や周期律表のさらなる理解、化学結合や分子の形成過程、磁性、固体中の電子状態などの理解するうえで極めて重要な役割を果たしています。

量子力学の発展当初は、原子の崩壊を避けるために導入された「電子を波として扱う」というアイディアでしたが、電子の状態を表す波動関数は、その絶対値の二乗によって確率分布と結びつけられ、現代の物理や化学を支える極めて重要な原子像を映し出してくれたのです。

まとめ ~「小さな球」から「電子雲」へ~

原子の歴史を振り返ると、人類の原子像が一度に完成したわけではないことが分かります。古代ギリシャでは「これ以上分割できないもの」という哲学的概念として生まれ、19世紀のドルトンによって化学反応を説明する実体的な原子へ変わりました。当初の原子は内部構造を持たない小さな球のように考えられていました。

ところがJ. J. トムソンが電子を発見すると、原子には内部構造があることが判明します。トムソン模型では正電荷の中に電子が埋め込まれましたが、ラザフォードらが正電荷と質量の大部分は原子中心の小さな原子核に集中していることを突き止め、原子核の周りをまわる原子像を提案しました。

次に登場したボーア模型では、電子が原子核の周囲の特定の軌道だけを回るという量子条件を導入することで、水素原子の安定性とスペクトルを説明することに成功します。そしてド・ブロイが電子の波動性を提案し、シュレディンガーの波動方程式とボルンの確率解釈によって電子は原子核の周りに三次元的な雲のように広がって存在するという原子像に行き着いたのです。

このように人の目では直接見ることのできない原子構造を明らかにするために、何人もの科学者が生涯をかけて挑戦してきたことはとても素晴らしいことだと思います。そのおかげで、私たちの原子像がアップデートされ、豊かな現代社会が成り立っているのです。

いま、あなたの頭の中にはどんな原子像が浮かんでいますか?

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